正室・側室
正室
築山殿/つきやまどの
今川氏の一族関口義広の女。母は今川義元の妹。家康が駿府で人質であったときに正室となった。永禄2年(1559)に長男信康、3年に長女亀姫を生む。同5年、人質交換によって岡崎に迎えられ、 城の東方にある総持寺の築山に住んだという。
天正7年(1579)遠江国富塚(浜松市)で家康の命によって殺され、同所の西来院に葬られた。
朝日姫/あさひひめ(南明院)
豊臣秀吉の異父妹。はじめは佐治日向守の妻(副田甚兵衛または副田吉成の妻とも)であったといわれる。小牧・長久手合戦後、家康と和睦・臣従させようとする秀吉が離婚させて、天正14年(1586)に 家康のもとに正室として嫁がせた。同16年、母大政所の病気見舞いと称して上洛、そのまま京都に在って18年没した・48歳。東福寺に埋葬された。
側室
西郡の方/にしごおりのかた(蓮葉院)
三河国西郡(蒲郡市)の城主鵜殿長忠の女。永禄18年(1565)岡崎において、家康2女の督姫を生む。慶長11年(1606)、伏見城にて頓死し、京都本禅寺に葬られた。
於万の方/おまんのかた(小督の局、長勝院)
三河鯉鮒の祠官永井志摩守吉英の女というが定かでない。築山殿に侍女として仕え、天正2年(1574)に家康2男の於義丸(のちに秀康)を生んだ。於万の懐妊を知った築山殿は、嫉妬 して於万を浜松城内の木に縛り折檻したという。元和5年(1619)、越前北庄にて没し、同所考顕寺に葬られた。72歳。
於愛の方/おあいのかた(西郷の局、宝台院)
戸塚忠春の女。母は三河八名郡の西郷正勝の女。西郷義勝の後妻に入ったが、義勝戦死後は浜松城に召しだされて家康に仕え、西郷清員の養女とされたために西郷に局と呼ばれる。天正7年(1579)に家康3男秀忠を生む。 同17年、駿府に没し、同所の龍泉寺に葬られた。28歳。寛永5年(1628)に従一位と宝台院の号を追贈された。
於都摩の方/おつまのかた(下山殿、長慶院)
甲斐武田氏の家臣秋山越前守虎康の女。穴山信君(梅雪)の養女として家康に仕え、天正11年(1583)に家康の5男万千代を生む。下山殿の呼称名は、穴山氏の旧領甲斐下山(身延町)にちなむ。 なお、家康3女の振姫をも生んだ。天正19年没。
於茶阿の方/おちゃあのかた(朝覚院)
遠江金谷の河村氏の女と伝えられる。同郷の鋳物師のもとに嫁いだが、夫が打ち殺されたので娘を抱いて逃れる途中、放鷹にきや家康の目にとまったのがはじまりといい、また一説に代官が彼女の美貌 をみて手ごめにせんとしたたために家康に直訴したのが縁という。文禄元年(1592)に家康の6男忠輝、3年には7男松千代を生む。元和7年(1621)没。
於亀の方/おかめのかた(相応院)
京都石清水八幡の祠官志水清康の女。初めて竹腰定右衛門正時に嫁ぎ伝次郎(正信)を生んだが、寡婦となってのち家康側室となった。 文禄4年(1595)に家康8男仙千代、慶長5年(1600)には9男義直を生む。家康逝去の後、剃髪して相応院と称し、寛永19年(1642)、名古屋にて没した。
間宮氏女/まみやしむすめ
北条氏の家臣間宮豊前守康俊の女。文禄4年(1595)に家康の4女松姫を生む。
於万の方/おまんのかた(蔭山殿、養珠院)
上総の正木左近大夫邦時(頼忠)の女。北条家臣の蔭山氏広の養女となった。小田原の陣ののち家康に召され、慶長7年(1602)に10男頼宣、8年には11男頼房を伏見城で生む。 熟列な日蓮宗奉者として知られる。家康の死後、養珠院と称し、承応3年(1654)に没した。
於梶(勝)の方/おかじのかた(英勝院)
武蔵稲付城主太田新六康資の女。家康関東入国ののち召し出され、慶長12年(1607)に5女市姫を生む。市姫は早世したので、家康の命によって於万の方の子で8歳になる頼房を養育 した。家康死後落髪して英勝院と称し、寛永19年(1642)に没した。65歳。
阿茶の局/あちゃのつぼね(雲光院)
甲斐武田氏の家臣飯田氏の女。はじめ今川家臣の神尾忠重に嫁いだが、忠重の死後、家康に近侍した。家康の陣中にも同伴したといい、小牧・長久手の陣では懐妊中にかかわらず同陣 したために流産したという。大坂の陣では、和議の使者をつとめた。寛永14年(1637)に没した。
阿牟須の方/おむすのかた(正栄院)
甲斐武田氏の家臣三井吉正の女。天正10年(1582)、家康のもとに召しだされた。文禄元年(1592)、肥前名護屋の陣中に随行したが、難産のため母子ともに死去したという。
於仙の方/おせんのかた(泰栄院)
信濃国の宮崎泰景の女。父は武田氏に仕えた。天正年中、家康のもとに召しだされる。元和5年(1619)駿府において没した。
於梅の方/おうめのかた(蓮華院)
近江国の青木一矩の女。慶長年中、家康のもとに召しだされて奥勤となったが、のち本多正純の妻となった。天保4年(1647)没。62歳。
於竹の方/おたけのかた(良雲院)
甲斐武田氏に仕えた市川昌永の女。天承10年(1582)以後、家康の奥勤となった。寛永14年(1637)没。
於六の方/おろくのかた(養儼院)
北条氏に仕えた黒田直陣の女。慶長年中、於梶の方の侍女として仕えたが、のち家康の侍妾となった。寛永2年(1625)没29歳。
於夏の方/お夏のかた(清雲院)
伊勢北畠氏旧臣の長谷川藤直の女。家康の晩年枕席に侍り、家康没後は落飾して清雲院と改めた。万治3年(1660)没。80歳。家康側室のなかでは最後まで残った女性である。